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名所めぐりは過去に行ったことのある土地の紹介です。

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仁徳天皇(にんとくてんのう)第16代天皇

幼少期から聡明、壮年期から仁慈に富んでいたことからこの名前が付けられた

仁徳天皇
生まれ: 西暦290年
死去: 西暦399年
両親: 応神天皇、 仲姫命
子女: 反正天皇履中天皇允恭天皇、 大草香皇子、 草香幡梭姫皇女、 住吉仲皇子
埋葬地: 大阪府 堺市 大仙陵古墳(仁徳天皇陵)大鷦鷯命(おおさざきのみこと)
応神天皇の第4皇子で、母は仲姫命(なかつひめのみこと)です。在位期間は87年。
仁徳天皇の容貌は身長2.7m、耳は眉の上あたりから口の下に垂れ、足の指は長く手の指の如し。
難波高津宮に都を構え、治水や灌漑事業に尽力したと記されています。特に「民のかまど」の逸話で知られ、民を慈しむ仁政を行ったことで有名です。

農政に意を用い、難波の堀江を通じ茨田堤(まんだのつつみ)を築き、和珥池(わにいけ)を開いた。
楽浪遺民の獲得を目的とする朝鮮遠征や宋への使節派遣など外交に留意した。
第16代天皇租税を免除するなど徳を以て世を治めた。
百姓の窮乏を知り、みずから倹約して苦を共にし、課役を免じて百姓を富ましめた。
仁徳天皇の陵墓は、大阪府堺市の百舌鳥にある仁徳天皇陵(大仙古墳)です。

仁徳天皇は、ある日高い山に登って四方の国を見て「国見」をしたところ、国のどこにも釜戸の煙が出てなく、国中の民が皆、貧窮していることを知った。
それから三年の間、すべての民の租税などを免除した。
それもあって、天皇の住む大殿が壊れても修理することもできず、雨漏りを避けて暮らしていた。
三年経って国の様子を見ると、いたるところに釜戸の煙が滿ちていた。民がようやく豊かになったとき、労役や納税を再開した。
にんとくてんのうこれで百姓は栄えて、勤労奉仕に苦しまなくなったので仁徳天皇の時代を讃えて聖帝(ヒジリミカド)の世と呼ばれた。

そんな聖帝ヒジリミカドと呼ばれた仁徳天皇の大后(オオキサキ=正妻)の石之日売命イワノヒメノミコトはとても嫉妬深かったので、天皇の妾(メカケ)は宮中を歩くこともままならず、天皇の恋の噂など聞けば足をバタつかせて妬んだ。
けれど、仁徳天皇は大の女好きで、石之日売命イワノヒメノミコトは、三人の女性にヤキモチを妬くことになる。

①1人目は、吉備海部直(キビノアマノアタイ)の娘の黒日売(クロヒメ)で、仁徳天皇は美しい娘がいると聞いて呼びよせたけど、大后の石之日売命(イワノヒメノミコト)の妬みがひどすぎて、実家の吉備へ逃げ帰ってしまった。

仁徳天皇は黒日売(クロヒメ)が恋しくてたまらないので、淡路島へ見物だと嘘をついて黒日売(クロヒメ)に会いに出かけた。
黒日売(クロヒメ)は天皇に吸い物献上するため青菜を摘んでいた時、仁徳天皇は高菜摘みも「吉備のかわいこちゃんと摘むとこころ晴々」というような歌を歌って、つかの間の逢瀬を楽しんだ。
仁徳天皇が帰るときには黒日売(クロヒメ)は名残惜しくて「あなたのことは忘れない」とか、「私と心を通わせ大和へいくのは誰の夫」など切ない歌を歌った。

②2人目は八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)を妻にした。大后が収穫祭の後の宴会のために御綱柏(ミツナガシワ)を採りに紀伊国(和歌山)に行っている間に、八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)を呼び寄せて、昼も夜もふざけちらしてして楽しんでいると言う噂はすぐにまわってしまった。
仁徳天皇第16代天皇
紀伊国で御綱柏(ミツナガシワ)を採っていた大后の乗った船の中で使用人からその噂話をきいた倉人女(クラヒトメ=使用人の女)はすぐ大后に伝えた。
仁徳天皇と八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)の関係を知った大后は、大いに怒り狂い儀式に使う予定だった御綱柏(ミツナガシワ)を全て海に投げ捨てた。

大后は、宮廷には帰らず山代の筒木(京都府田辺町)の韓人の奴理能美(ヌリノミ)という人の家に泊まり仁徳天皇に何通もの歌を送った。
仁徳天皇も歌を返そうとクチコの臣を派遣したけど、怒った大后は受け取ろうとしなかったので、雨の中跪いていたクチコの着物はびっしょびっしょに濡れていた。
石之日売命
クチコの妹の口日売(クチヒメ)は大后に仕えていたから、そんな兄を見て涙が止まらなくなって奴理能美(ヌリノミ=山城国筒木の豪族)と兄と三人で相談して、大后には変な下心などはなく、ただ三様に変わる虫を見にこちらに来ただけと伝えた。
その虫とは蚕(カイコ)で、一度は這う虫となり、次は殻(カイコ)となり、次は飛ぶ鳥になる、三色に変わる奇怪な虫で、それを見に行ったのだというと、天皇も不思議なので見たいといって大后のところまで迎えにきた。

それでも仁徳天皇は八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)が恋しくて、歌を送った。
悔しいけどずっと一人なのも心配だと伝えた。
八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)は、一生独身でもそれを天皇が望むならそれでいいと言ったのでこれをたたえて八田部を定め、八田部という名が残った。

③3人目は、異母妹の女鳥王(メドリノミコ)
仁徳天皇は、腹違いの弟の速総別王(ハヤブサノワケノミコ)に仲を取り持ってもらったけど女鳥王(メドリノミコ)は嫉妬深い大后のせいで后になれない姉の八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)の一部始終を見ていたので、自分は天皇の妻になるよりもあなたの妻になりたいと言って、速総別王(ハヤブサノワケノミココ)の妻になった。
八田若郎女
速総別王(ハヤブサノワケノミコ)はそのことを仁徳天皇に返事をしなかったので、女鳥王(メドリノミコ)が機織りをしている所へ直々に仁徳天皇がやってきた。
誰のために機を織っているのかたずねると、速総別王(ハヤブサノワケノミコ)のためだと答えたので仁徳天皇は二人の仲を知って宮殿に帰った。

女鳥王(メドリノミコ)は速総別王(ハヤブサノワケノミコ)に仁徳天皇を殺してと頼んだ。
仁徳天皇はこれを知ってすぐに兵を出し、二人を殺そうとしたが二人は倉椅山(クラハシヤマ)まで逃げた。
倉椅山は険しいけど愛する人と登ると苦にならないと歌ってから、更に逃げて宇陀(ウダ)の蘇邇(ソニ=奈良県宇陀郡曽爾村)に着いたとき仁徳天皇の軍に追いつかれて殺されてしまった。

山部大楯連追手の軍の将軍の山部大楯連(ヤマベノオオタテノムラジ)は、殺した女鳥王(メドリノミコ)が手に巻いていた玉釧(タマクシロ)というブレスレットを剥ぎ取って、自分の妻にあげた。
それからしばらくして、宮廷で宴会が開かれたとき、各氏族の妻たちもみんな参加するよう呼ばれた。
山部大楯連(ヤマベノオオタテノムラジ)の妻も参加したが、腕にはあの女鳥王(メドリノミコ)の玉釧(タマクシロ)を巻いていた。

大后の石之日売命(イワノヒメノミコト)が妻たちに大酒を注いだ柏の葉を配ってまわっていたとき、女鳥王(メドリノミコ)の玉釧のブレスレットに気づいてすぐさま妻を退席させた。
それから山部大楯連(ヤマベノオオタテノムラジ)を呼び出して、容赦なく処刑した。

応神天皇が亡くなったので、大雀命(オオサザキ)=仁徳天皇は天皇がきめたとおり腹違いの弟、宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)に天下をゆずったが腹違いの兄の大山守命(オオヤマモリ)が天下を自分のものにしようと企んでいた。
宇遅能和紀郎子大雀命(オオサザキ)はこれをすぐに宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)に知らせた。
驚いた宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は、兵を宇治川の近くに潜ませておき、宇治の山の上に自分の偽者を座らせ、まるで自分が山の上の居るように見せた。

さらに、大山守命(オオヤマモリ)が川を渡るための船にサナカズラという植物の根を砕いて作ったぬるぬるの汁を塗って、滑って転ぶように仕掛けた。
宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は粗末な服に着替え、舵を取って船に立っていたら大山守命(オオヤマモリ)が船に乗り込んできた。

大山守命(オオヤマモリ)も兵を隠し服の下に鎧をきていたが、船に乗り込んでも、弟が船頭の宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)と気づかずに話しかけた。
この山に、怒り狂った猪がいると聞いたが、この猪を狩れるだろうか?と船頭に尋ねると船頭は今まで、何度も捕らえようとした者はいたが獲ったものはいなのでだめでしょうと答えた。
船が川の真ん中まできたところで変装した船頭は、船を傾けて大山守命(オオヤマモリ)を水の中へと落とした。
大山守命大山守命(オオヤマモリ)は川に落ちた、すぐに浮き上がったがそのまま川に流されていった。
流されながら「助けてくれ」と歌ったが隠れていた兵士たちは誰も助けることができず流されていって沈んでしまった。

沈んだ辺りを探ってみると、大山守命(オオヤマモリ)が服の中に着込んだ鎧に引っかかり『カワラ』と鳴ったのでその地を「かわらのさき」と呼ぶようになった。
大山守命(オオヤマモリ)の遺体は奈良山に葬った。

そして、大雀命(オオサザキ)と宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)はお互いに皇位を譲り合っていた。
そこへ海人(あま)が食事を献上しに来たけど、譲り合ったまま何日も過ぎて行ったり来たりの海人(あま)は疲れたのと、魚が腐ってしまったことで泣きだした。
大雀命そこから「海人なれや己が物から泣く」という諺ができた。
結局、宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は亡くなってしまったので大雀命(オオサザキ)が天下を治めた。

仁徳天皇を祀る神社は、大阪府大阪市中央区にある高津宮(高津神社)が有名です。高津宮は、仁徳天皇が難波高津宮の地に都を置いたとされる伝承地で、その遺跡の上に建てられたとされています。また、仁徳天皇は、高津宮以外にも、宇治上神社(京都府宇治市)や御香宮神社(京都府京都市伏見区)など、他の神社でも祀られています。
難波高津宮への遷都:難波(現在の大阪)に都を移し、政治の中心を大和から移しました。
治水・灌漑事業:難波の堀江開削や茨田堤(まんだのつつみ)の築造、和珥池の開削など、治水・灌漑事業に力を入れ、農民の生活向上に貢献しました。
「民のかまど」の逸話:国を見渡して民家から煙が立たないことを憂い、租税を免除して民を救済したという逸話があります。これにより、国民は豊かになり、家々から煙が立ち上るようになったと伝えられています。
楽浪遺民の獲得:朝鮮半島から楽浪郡の遺民を獲得しようと遠征を行ったり、中国の宋に使節を派遣するなど、外交にも力を入れました。

仁徳天皇の人物像:
聡明で慈悲深い:幼少の頃から聡明で、大人になってからは慈悲深く、民を思う心を持っていたとされています。
倹約家:質素倹約を旨とし、宮殿の造営なども民の協力を得て行ったと伝えられています。
仁徳天皇陵:大阪府堺市にある大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)は、日本最大の前方後円墳で、仁徳天皇陵として知られています。2019年には世界遺産に登録されました。
仁徳天皇は、その治世で民を慈しみ、国を豊かにしたことから、後世に「仁徳」の名で称えられました

関連

  • 15代応神天皇
  • 17代履中天皇(りちゅう)
  • 石之日売命(いわのひめのみこと)は、仁徳天皇の皇后で、嫉妬深い性格で知られ、天皇の浮気(八田皇女の入内)に激怒して出家した逸話が有名です。葛城襲津彦の娘で、皇族外から皇后になった最初の例とされ、履中天皇など4人の天皇の母でもあります。
  • 黒日売(くろひめ)」は、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)の妃の一人で、吉備国(現在の岡山県)の海部直(あまべのあたえ)の娘
  • 八田若郎女(やたのわきいらつめ)は石之日売命が亡くなったのち、仁徳天皇は八田若郎女を正式に皇后に立てた(仁徳38年)。妹は女鳥王
  • 奴理能美(ぬりのみ)は応神天皇の時代に百済から渡来し、山代の筒木(現在の京都府京田辺市〜綴喜郡付近)に定住した
  • 楽浪遺民(らくろういみん)とは、漢の武帝が設置した楽浪郡(紀元前108年~313年)が滅亡した後も、朝鮮半島に残った漢人系住民のことを指します。彼らは高句麗支配下でも中国文化への帰属意識を持ち続け、墓誌や遺物にその痕跡を残しました。
  • 御綱柏(みつながしわ)は、植物で、古代の宮廷儀礼や神事に用いられた特別な木です。仁徳天皇の皇后・磐之媛命が熊野岬に赴き、豊楽(酒宴)のために御綱柏を採ったという記録が残っています。
  • クチコとは、丸邇臣口子(わにのおみのくちこ)のことです。仁徳天皇に仕え、皇后・磐之媛命が家出した際に弁解の歌を持たされて派遣された家臣です。
  • 女鳥王(めとりのひめみこ/めとりのおうじょ)は、皇女で、仁徳天皇に求婚されるもこれを拒否し、異母弟の速総別皇子(はやぶさわけのみこ)と結ばれ、その結果、仁徳天皇の怒りを買って追われ、最後は二人は殺害されてしまう。姉は八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)
  • 速総別王(はやぶさわけのみこ)は天皇の異母弟
  • 宇遅能和紀郎子:第15代応神天皇皇子で、第16代仁徳天皇の異母弟。=菟道稚郎子 うじのわかいらつこ
  • 山部大楯連(やまべのおおたてむらじ)は仁徳天皇の命を受け、速総別王(隼別皇子)と女鳥王を追討した将軍
  • 大山守命(おおやまもりのみこと)は応神天皇の皇子で、皇位継承争いの中で悲劇的な最期を遂げた人物
  • 佐良志奈神社・長野県