氏姓の混乱を正すため盟神探湯 (くがたち) を行ったという。 『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の一人,済 (せい) に比定される。
生まれ: 西暦376年
死去: 西暦453年2月8日
子女:
安康天皇、
雄略天皇、 木梨軽皇子、 軽大娘皇女、 坂合黒彦皇子、 八釣白彦皇子
両親:
仁徳天皇、 磐之媛命
妻: 忍坂大中姫、 衣通姫

18代反正天皇の弟の男淺津間若子宿禰王(オアサヅマワクゴノスクネ)こと允恭(インギョウ)天皇は「遠つ飛鳥宮(トオツアスカノミヤ)」現在の奈良県飛鳥にて、天下を治めた。
この允恭(インギョウ)天皇が意富本杼王(オオホドノミコ)の妹の
忍坂大中津比売命(オシサカノオオナカツヒメノミコト)を妻として産んだ子が
木梨之軽王キナシノカルノミコと、
長田大郎女ナタノオオイラツメと、境之黒日子王サカイノクラヒコノミコと、
穴穂命アナホノミコトこと20代天皇
安康天皇と
軽大郎女(カルノオオイラツメ)別名を衣通郎女(ソトホリノイラツメ)。
体が白く輝いてその光が衣を通って出てくるためこの名がついているほど美しい。
さらに
八瓜之白日子王(ヤツリノシロヒコノミコ)と、大長谷命オオハッセノミコトこと21代天皇
雄略天皇と、
橘大郎女(タチバナノオオイラツメ)と、
酒見郎女(サカミノイラツメ)以上9柱。

允恭天皇は初め病気だったため、天皇にならないと言っていたが家来のすすめで天皇になった。
このとき新羅から来た大使が薬に詳しくて、天皇の病気を平癒させた。
允恭天皇は、氏族の人たちの氏姓(ウジカバネ)が間違いだらけになているのを憂いて本来のものに正した。
允恭天皇は78歳で亡くなった。
禁断の恋
允恭天皇が亡くなったあと、息子の
木梨之軽王(キナシノカルノミコ)が皇位につくことが決まっていたが、天皇になる前、物忌の期間に実の妹である
軽大郎女(カルノオオイラツメ)と恋に落ちてしまっていた。
すぐに宮中に知れ渡った。

宮廷の大スキャンダルに、木梨之軽王(キナシノカルノミコ)は恐ろしくなって
大前小前宿禰大臣(オオマエオマエノスクネ)の家に逃げ込んで武器を作って戦いに備えたていた。
次の天皇候補、弟の穴穂命(アナホノミコト)(=後の
安康天皇)も武器を作り大前小前宿禰大臣(オオマエオマエノスクネ)の家を取り囲んだ。
大前小前宿禰大臣(オオマエオマエノスクネ)は兄弟と戦うのは世間が笑うのでやめて。私が
木梨之軽王(キナシノカルノミコ)捕らえてくると言って、約束通りに連れてきたので、穴穂命(アナホノミコト)は木梨之軽王(キナシノカルノミコ)を流罪とした。
木梨之軽王(キナシノカルノミコ)は妹の
軽大郎女(カルノオオイラツメ)に恋しいと歌を歌いながら愛媛の温泉に流刑され、軽大郎女(カルノオオイラツメ)も兄を追いかけて行って二人で自殺した。
允恭天皇は5世紀中頃に大和時代に在位したとされています。
仁徳天皇を父とし、宋書に登場する
倭の五王の一人「済」と推定されています。
允恭天皇は、強力な王権を確立するために、有力豪族との連合政権的な体制から専制的な体制へと転換を図ったとされています。その過程で、
大伴氏や
物部氏を軍事的背景として利用し、葛城氏や吉備氏といった地方の有力豪族とも戦い、これを降伏させました。
また、允恭天皇は、養蚕を推奨し、新羅への出兵や宋への遣使など、積極的に対外政策を実施したとされています。
彼の治世は、後の
雄略天皇の時代と並んで、古代の人々が歴史的な画期として捉えていた。
関連
- 18代反正天皇
- 20代安康天皇(あんこう)
- 忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつひめのみこと)は応神天皇の孫にあたる皇女 であり、允恭天皇とは父方の従兄妹にあたります。
- 木梨之軽王(きなしのかるのみこ)は允恭天皇の第一皇子であり、同母妹 軽大郎女(かるのおおいらつめ)=衣通姫 との恋愛によって皇位継承から転落した
- 長田大郎女(ながたのおおいらつめ)はまず、仁徳天皇の皇子 大草香皇子 の妃となり、眉輪王(まよわのおう) を生みます。しかし、根使主(ねのおみ)の讒言により、大草香皇子は 安康天皇に誅殺 されます。夫を殺した安康天皇は、そのまま長田大郎女を 皇后として奪い取ります。しかし、長田大郎女の息子 眉輪王 は、実父・大草香皇子を殺したのが安康天皇であると知り、母の膝枕で眠っていた安康天皇を刺殺します。
- 大草香皇子(おおくさかのみこ):根使主は大草香皇子からの宝冠を横領し、その罪を隠すために「大草香皇子が献上を拒否した」と安康天皇に虚偽の報告、よって暗殺された。
- 眉輪王(まよわのおおきみ/まゆわおう)は、安康天皇暗殺事件の中心人物。父が安康天皇に殺された事実を知り、復讐として天皇を刺殺する
- 根使主(ねのおみ)は大草香皇子からの献上品玉縵の美しさに魅了され、天皇に献上せずに着服し、「大草香皇子が献上を拒否した」と虚偽の報告をした
- 軽大郎女(かるのおおいらつめ)は、允恭天皇の皇女で、母は皇后・忍坂大中姫命。
同母兄である木梨軽皇子(軽太子)との禁忌の恋によって、古代史上もっとも有名な悲恋の主人公となりました。別名を衣通郎女(ソトホリノイラツメ) - 八瓜之白日子王(やつりのしろひこのみこ)は、安康天皇が眉輪王に殺害された後、大長谷王(後の雄略天皇)が兄弟を次々に詰問し、疑いをかけて殺していくという、安康天皇暗殺後の「疑心と粛清」の犠牲者
- 橘大郎女(たちばなのおおいらつめ):聖徳太子の妃となった橘大郎女とは別人
- 酒見郎女(さかみのいらつめ)は、允恭天皇の末子の皇女
- 大前小前宿禰大臣(おおまへ・おまへのすくねのおおおみ)は、古代豪族物部氏(もののべうじ)の有力者で、物部大前(おおまえ)と物部小前(おまえ)という兄弟、あるいは合わせて「大前小前」と指す場合がある。彼らは饒速日命(にぎはやひのみこと)の12世の孫とされ、特に大前は仁徳天皇崩御後の皇位争いで、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)から後の履中天皇となる皇子を救出・護衛し、安康天皇時代の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)の自害にも関わった、物部氏の要職を担った武人・豪族
- 住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)は、仁徳天皇の皇子であり、皇位継承前夜の反乱者。
- 倭の五王(讃・珍・済・興・武)は中国南朝の正史『宋書』倭国伝に登場する、5世紀の倭(ヤマト王権)の王たち。讃=応神天皇、珍=仁徳天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇(ワカタケル大王)
