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名所めぐりは過去に行ったことのある土地の紹介です。

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清寧天皇(せいねいてんのう)22代天皇

出生時より髪の毛が白かったために白髪皇子(しらかのみこ)と名付けられた

生まれ: 西暦444年, 奈良県 桜井市
死去: 西暦484年1月16日, 奈良県 桜井市
両親: 雄略天皇、 葛城韓媛
在位:480年1月15日から484年1月16日までの約5年間。
別称:白髪命(しらかのみこと)・息子白髪大倭根子命(シラカノオオヤマトネコノミコト)

清寧天皇は、白髪命(しらかのみこと)という命名からいわゆるアルビノで、后も子もないとはその疾患で早世したもので、「清寧」という名称も幼さを表していると考える。
清寧天皇
















雄略天皇の息子白髪大倭根子命(シラカノオオヤマトネコノミコト)こと清寧天皇は伊波礼の甕栗の宮(イワレのミカクリノミヤ)で、天下を治めた。

この天皇は皇后も子供もいなかったので、次の天皇となる者を探したら葛城の高木の角刺宮(ツノサシノミヤ)に履中天皇の息子である市辺忍歯別王(イチノヘノオシハノワケノミコ)の妹で忍海郎女(オシヌミノイラツメ)別名を飯豊王(イイトヨノミコ)がいた。

山部連小楯(ヤマベノムラジオダテ)が播磨(兵庫県)の長官に任じられとき、志自牟(シジム)という男の新築祝いに臨んだ。
第22代天皇宴会が盛り上がりみんなが舞いはじめたので、火焚きをしていた二人の少年にも舞わせることにしたところ、二人が舞を譲り合っているのをみて、みんな笑った。

やっと兄が舞って、次に弟が舞ったとき、弟は舞にあわせて履中天皇のこどもの市辺押歯王(イチノヘノオシハノミコ)の御子ですと歌った。
それを聞いた山部連小楯(ヤマベノムラジオダテ)は驚いて転げ落ちて、皆を外に出し二人の兄弟を膝に乗せ泣き悲しんだ。
やがて仮宮に住まわせて叔母の飯豊王(イイトヨノミコ)は大いに喜んで兄弟を呼び寄せた。

まだ二人が天下を治める前のこと、志毘臣(シビ)という男が歌詩を掛け合う歌垣にでてきて袁祁命(ヲケノミコト)と結婚させようとしていた大魚(オウオ)という乙女の手を取って挑発してきたことがあった。
そこで袁祁命(ヲケノミコト)は、志毘臣(シビノオミ)宮殿が傾たといわれたので、宮大工の腕が悪いから隅が傾いていると返したが、お前のこころがたるんでいるからだと返された。
シビ(=マグロ)のくせに妻がいるなんてと返して、掛け合いは夜明けまで続いた。

やがて帰宅した兄のオケと弟のヲケは相談して、今ごろ確実に寝ている志毘を殺しにいくことにした。そして討ち入り殺した。
それから、二人の兄弟は皇位を譲り合ったが、結局弟の袁祁命(ヲケノミコト)が顕宗天皇となった。

本名は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)または白髪皇子(しらがのみこ)とも呼ばれます。雄略天皇の皇子で、母は葛城円大臣の娘、韓媛です。即位前は白髪皇子と呼ばれ、即位後は清寧天皇と称されました。

即位:異母弟の星川皇子の反乱を鎮圧し、磐余甕栗宮で即位したと伝えられています。
皇嗣:后妃や皇子女がいなかったため、履中天皇の孫である億計(仁賢天皇)と弘計(顕宗天皇)の兄弟を皇嗣としたとされています。
陵墓:河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)に葬られたと伝えられています。
実在性:歴史学者の遠山美都男氏は、白髪という名前や伝承から、清寧天皇の実在性を疑問視し、架空の人物ではないかと指摘しています。
その他:清寧天皇の治世については、記紀に詳しい記述はありませんが、葛城臣や吉備臣といった豪族を没落させ、大臣・大連制を定めたと伝えられています。
また、大伴連や物部連といった「連姓豪族」を登用し、朝廷の組織を確立する端緒を開いたとも言われています。
一部の研究では、清寧天皇がアルビノであった可能性も指摘されています

関連

  • 21代雄略天皇
  • 23代顕宗天皇(けんぞう)
  • 市辺忍歯別王(いちべのおしはのみこ、または市辺押磐皇子)は、履中天皇の皇子で、将来の天皇候補として期待されながら、後継者争いの中で大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)(後の雄略天皇)に狩りに誘い出され、殺害された悲劇の皇子です。歯の先端が3つに割れていたことから「忍歯(おしは)」という異名を持ち、その遺骨は現在滋賀県東近江市に「古保志塚(こほしづか)」として伝わっています。
  • 忍海郎女(おしぬみのいらつめ)とは、飯豊女王(いいとよのひめみこ)の別名・異名の一つで、清寧天皇の死後、皇位継承者がいない時に、一時的に政治を執り行った(「忍海部女王」とも)とされる皇族女性です。葛城の忍海(現在の奈良県葛城市あたり)に本拠地を置き、皇統の断絶を防ぐ重要な役割を果たしました。
  • 山部連小楯(やまべのむらじおたて)は、豪族で官吏であり、播磨国司として赴任中に、市辺押磐皇子(いちべのおしはのみこ)の遺子である億計王(おけのみこ=24代仁賢天皇)と弘計王(をけのみこ=23代顕宗天皇)を発見し、朝廷に報告してその功績で山部連(やまべのむらじ)の姓(カバネ)と「山守辺」という部民(部民)を与えられた
  • 志自牟(しじむ)」とは、播磨国(現在の兵庫県)の豪族(村の首長)であり、「縮見屯倉(しじみのみやけ)」という屯倉(みやけ:朝廷の直轄地)の管理者で、市辺押磐皇子の子である億計王(おけのみこ)と弘計王(をけのみこ23代顕宗天皇)をかくまい、後に即位する顕宗天皇と仁賢天皇を見出した人物
  • 志毘臣(しびのおみ)は、豪族で、平群鮪(へぐりのしび)とも表記され、平群氏の一員で、大和国宇陀郡を本拠地とし、宇陀の有力者(菟田首など)と仁賢天皇(意祁命)の対立に絡む物語で知られる人物
  • 袁祁命(をけのみこと)は古事記における顕宗天皇(第23代)の名。『日本書紀』では 弘計天皇(ひろかのすめらみこと)
  • 韓比売(からひめ)(訶良比売とも)は清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)の母