顕宗天皇(けんぞうてんのう)は、父市辺皇子が雄略天皇に殺されたとき、兄の億計(おけ)王(のちの仁賢天皇)とともに身を隠したが、嗣子のない 清寧(せいねい)天皇に迎えられ、清寧天皇の没後、即位した。

生まれ: 西暦450年, 日本
死去: 西暦487年6月2日, 飛鳥京
両親: 市辺押磐皇子
パートナー: 難波小野王
在位:485年から487年まで(旧暦で顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)
袁祁命(ヲケノミコト)こと顕宗天皇は近飛鳥宮(チカツアスカノミヤ)で天下を治めた。
顕宗天皇は
石木王(イワキノミコ)の娘の
難波王(ナニワノミコ)を妻にしたが御子はいなかった。
顕宗天皇は父の亡骸を埋めた所を探していた。
淡海の国にいた賤しい老婆が遺体を埋めた場所を知っていると言ったので、探すと歯は
市辺忍歯別王(イチノヘノオシハノワケノミコ)の特徴のある先が3つに別れた大きな歯だった。
そこで殺害現場の蚊屋野(カヤノ)の東の山に陵を作って埋葬し、
韓帒(カラフクロ)の子達にその陵を守らせた。後に遺骨を大和へ移した。

顕宗天皇は、この遺骨の場所を覚えていた賤しい老婆を呼び寄せ褒めて、宮殿の中に住まわせ置目老媼(オキメノオウナ)という名前を与えて、用事があると大きな鈴を鳴らして、呼びだしていた。
置目老媼(オキメノオウナ)は年をとったのでそろそろ故郷に帰るといったので、寂しくなると歌い、天皇は見送った。
ずっと昔、
意富祁命(オオケノミコト=仁賢天皇)と袁祁命(ヲケノミコト=顕宗天皇)が逃げていたときに食べていた乾飯(ほしいい)を奪った
猪甘(イカイ)の老人を探させた。
探しだして殺し、その一族の膝の筋を切って歩けなくした。

天皇は、父を殺した大長谷王(オオハツセノミコ)(=
雄略天皇)を深く恨んでいたので、その御霊に報復したいと思っていた。
兄の意富祁命(オオケノミコト)は他人を使ってはいけない、自分が行くと言って御陵に行き、そばの土を少しだけ掘って戻ってきた。
天皇は、兄のあまりに早い帰宅を不思議に思い聞いたところ、父親の仇討ちはしたいけど、叔父にあたるし、しかも天下を治めた天皇でもあるので、その御陵を壊したとなると自分たちがそしられるから、少しばかりの土を持ってきたと答えた。それで、天皇はまったく道理だと納得した。
顕宗天皇は38歳で崩御し、墓は片岡の石杯(イワツキ)の岡の上(奈良県香芝市)にある。

5世紀後半に実在したとされる天皇で、史実としての事績は不明な点が多いとされています。系譜上は、
清寧天皇の次に即位したとされていますが、清寧天皇の事績も不明な部分が多く、顕宗天皇の在位期間や事績も同様に謎に包まれています。
事績:史実としての事績はほとんど不明です。記紀にわずかな記述があるのみで、実在性も確かなものではありません。
在位期間:記紀によれば、数年間在位したとされていますが、具体的な在位期間も不明です。
陵墓:奈良県奈良市に「 春日光山陵」(かすがのひかりやまのみささぎ)が陵墓として治定されています。
その他:顕宗天皇に関する情報は、ほとんどが伝説や伝承の域を出ません。そのため、研究者の間でも、実在性や事績については様々な議論があります。
- 21代雄略天皇
- 22代清寧天皇
- 石木王(いしきのみこ)は雄略天皇の皇子・磐城皇子(いわきのみこ)と同一人物と考えられる
- 難波王(なにわのみこ)は仁賢天皇が皇太子のとき、宴席で無礼を働いたとされ、
仁賢天皇即位後に処罰を恐れて 自害した
- 意富祁命(オオケノミコト)は仁賢天皇(にんけんてんのう)、弘計王(顕宗天皇)の兄
- 市辺忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ)市辺押磐皇子:第17代履中天皇の皇子であり、第23代顕宗天皇と第24代仁賢天皇の父です。雄略天皇によって暗殺された悲劇の皇族
- 韓帒(からふくろ)は近江国の狭狭城山(ささきのやま)氏の祖とされる人物。近江の蚊屋野(かやの)に猪や鹿が多いと雄略天皇に進言したことが、市辺押磐皇子(仁賢・顕宗の父)の暗殺の口実として利用され
- 猪甘(いかい)は、猪(イノシシ)を飼育していた「猪飼部(いかいべ)」と呼ばれる人々、またはその居住地や関連地名(猪甘野、猪甘津など)を指す。