兄狭穂彦(さほびこ)王の反乱で皇后狭穂姫を失い,日葉酢媛(ひばすひめ)命を皇后にたて,景行天皇らをもうけた。 伊勢斎宮の成立,農業用池溝の開削,石上(いそのかみ)神宮の神宝に関する記事,相撲・埴輪起源説話などが記される

活目尊(いくめのみこと)
生まれ: 紀元前71年
死去: 西暦70年
子女: 垂仁天皇の子供は16人。男は13人。女は3人。
両親:
崇神天皇、 御間城姫
孫:
ヤマトタケル、
仲哀天皇(14代)、 成務天皇、 神櫛皇子、 大碓皇子
主な業績としては、
四道将軍を派遣して大和朝廷の領土を広げたことや、財政制度を確立したことなどが挙げられます。

また、
本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)と出雲大神の因縁、蛇身の美女
肥長比売(ひながひめ)、常世国から「ときじくのかくの木実」を持ち帰った
多遅摩毛理(たじまもり)など、魅力的なエピソードも伝えられています。
崇神天皇の子、伊玖米入日子伊沙知命イクメイリヒコイサチノミコトは11代垂仁天皇となった。生まれながらに秀でた容姿で、壮年になってからは度量も広く、人となりは真理に叶い、歪めたり飾ったりしなかった。
垂仁天皇が沙本毘売命サボヒメを妻にしたときの話
沙本毘売命サボヒメの兄の
沙本毘古王サボヒコが妹に意外なことを質問した。
「夫(=垂仁天皇)と兄(サボヒコ)のどちらが大切か?」
沙本毘売命サボヒメが「それは兄です」と答えたから、兄の沙本毘古王サボヒコは、「お前が本当に私を大切と思うならばお前と私で天下を治めよう」と言って、すぐに小刀を作って、妹に渡した。
「この小刀で垂仁天皇が寝ているところを刺し殺せ」
垂仁天皇はそんなこととは知らず、沙本毘売命サボヒメの膝枕で眠っていたけど沙本毘売命サボヒメはそんな天皇の首めがけて、小刀を三度も振り上げたが、どうしても刺すことが出来ず、涙を流した。

垂仁天皇の顔にこぼれた涙で、目覚めて、夢の話をした。
「沙本の方角(現在の奈良県佐保町で沙本毘売命サボヒメの実家方面)から、雨が振って私の顔を濡らし、錦色の蛇がわたしの首に巻きついたけど、これは何の意味があるのだろうか?」と言った。
沙本毘売命サボヒメは本当のことをすべて打ち明けた。
それをきいた垂仁天皇は「危うくだまし討ちにあうところだった」といい、すぐに軍を率いて、沙本毘古王サボヒコを討つために差し向けた。
沙本毘古王サボヒコは垂仁天皇の軍勢を稲城(いなぎ)を築いて待ち構えていたが、そこへ、自分のせいで兄が殺されるといてもたってもいられないサホビメが兄を想い、宮の裏門から抜け出して兄の稲で出来た城に入ってしまった。
しかもそのとき、沙本毘売命サボヒメは身重だった。

垂仁天皇は身重の沙本毘売命サボヒメがいるので、沙本毘古王サボヒコの稲城を攻めきれなくて周囲を囲むばかりで、膠着してしまった。
そうしている間に、沙本毘売命サボヒメのお腹の中の子は生まれた。
沙本毘売命サボヒメは稲城の外へでて、その子供を稲城の外に置いて垂仁天皇に向かって「この子を自分の御子と思うなら育ててください」と言った。
垂仁天皇は「兄であるサホビコは恨んでいるが、后であるあなたは愛しく、失いたくない」と言った。
そこで、力のある兵士を選んで子供を取り戻すときに、髪でも、手でも掴んでいいから沙本毘売命サボヒメも取り戻せと命じた。
沙本毘売命サボヒメは垂仁天皇の性格をよく知っていたから、髪を剃ってその髪でかつらを作りかぶって、手に巻いた玉の紐や着物も腐らせて身につけてから稲城の外へ御子を差し出した。

兵士達は、御子を受け取ると、その母親であるサホビメを捕らえようとしたが髪をつかめば髪は外れ、手を握れば玉の紐は切れ、着物をつかめば着物が破れ沙本毘売命サボヒメを捕まえることができなかった。
垂仁天皇は悔やみ、恨んで玉作りの民から土地を取り上げてしまった。
垂仁天皇は后の沙本毘売命サボヒメに戻ってきてほしくて、子どもの名は母親がつけるものだろうと言った。
后は「火(ホムラ)のついた稲城を焼いているときに生まれましたから
本牟智和気御子ホムチワケノミコと名付けてください」と言った。
また垂仁天皇は沙本毘売命サボヒメに戻ってきてほしくて「どうやって育てればいいか?」と問うと「乳母をつけてください。湯あみをさせるための
大湯坐(オオユエ)・
若湯坐(ワカユエ)をつけて育ててください」

垂仁天皇は沙本毘売命サボヒメにどうしても戻ってきてほしくて「お前が結んだ衣の紐は、誰がほどくというのだ」と尋ねた。
「
比古多々須美智宇斯王ヒコタタスミチノウシの娘の
兄比売エヒメ・
弟比売オトヒメは貞節な民ですから、召使ってくださいと言った。
沙本毘売命サボヒメの意思はかたかった。
垂仁天皇はついに沙本毘古王サボヒコを殺し、妹の沙本毘売命サボヒメも稲城を焼く炎の中に身を投じて死んでしまった。
垂仁天皇は、
ホムチワケと一緒に遊んでいたけど、ヒゲが胸元まで伸びるくらい大人になったいまでも一言も物を言うことがなかった。

そんなある日、鶴の声を聞いたとき初めてカタコトの言葉を口にしたので、その鶴を捕まえよと
山辺大鶙(ヤマノベノオオタカ)を遣わした。
紀伊国から播磨国に至り、因幡国を越え、丹波国、但馬国を通り東へと追いかけて、近江国に至り、やがて美濃国を越えて、尾張国から信濃国にまで追いかけていき、ついに越国(現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部)へとたどり着いた。
和那美(ワナミ)の港に網を張って、白鳥を捕まえて、垂仁天皇に献上したが
ホムチワケは物を言うこともなく終わってしまった。
垂仁天皇が寝床に入ったら、神託があった。
「わたしの神殿を天皇の住居と同じように、立派に立て直せば、御子は必ず言葉を話せるようになるだろう」と出雲の大神(
大国主)が言ったとわかった。
そこでホムチワケを出雲の大神の宮へと参拝させる同行者を
曙立王(アケタツノミコ)に占わせたらアケタツとウナカミに白羽の矢があたった。

垂仁天皇はさらに、
大国主を拝むことで効果があるかどうか占わせた。
効果があるなら占い力で木の上に住んでいる鷺(サギ)よ落ちろ!というと、鷺(サギ)が地面に落ちて死んだ。
「占いの力で生きろ!」と言ったら生き返った。
今度は甘樫(あまかし)の丘の葉の広い樫の樹を占いの力で枯らしたり生き返らせたりした。
そこで、
曙立王(アケタツノミコ)は
倭者師木登美豊朝倉曙立王(ヤマトハシキトミトヨアサクラノアケタツノミコ)と名付け、弟の
菟上王(ウナカミノミコ)をつきそいにして、ホムチワケと共に出雲へと旅立たせた。
出雲に到着して、大神(=
大国主)を参拝して帰るとき
ホムチワケが滞在しているところで、ホムチワケに食事を献上する際、「川下に青葉の山のように見えるのは、山のように見えて、山ではなく、もしかして、出雲のイワクマの曽宮(ソノミヤ)の葦原色許男大神(アシハラシコヲノオオカミ)(
大国主の別名)を祀っている榊を立てた祭壇ではないだろうか」と言った。
同行者たちは驚いて早馬を走らせて、天皇に知らせた。

ホムチワケはアジマサの葉で出来た宮にいた時に
肥長比売(ヒナガヒメ)と一夜を共にしたが、ふと寝姿を見ると大蛇だったので、怖くて船で逃げた。
すると肥長比売(ヒナガヒメ)は悲しんで、海を青白く光らせながら船で追いかけて来た。
ますます恐ろしくなって山の低く谷になったところを船を引き上げ越えて、やっとの思いで逃げ帰った。
曙立王(アケタツノミコ)と
菟上王(ウナカミノミコ)は天皇に
ホムチワケが話せるようになったと報告すると垂仁天皇は喜び、すぐにもう一度、菟上王(ウナカミノミコ)を出雲に向かわせて、神宮を造らせた。
沙本毘売命(サボヒメ)が言うとおりに垂仁天皇は
美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の娘の、
比婆須比売命(ヒバスヒメ)、
弟比売命(オトヒメ)、
歌凝比売命(ウタゴリヒメ)
円野比売命(マトノヒメ)4姉妹を妻として迎えが比婆須比売命(ヒバスヒメ)と弟比売命(オトヒメ)だけを残して歌凝比売命(ウタゴリヒメ)と円野比売命(マトノヒメ)は醜かったからという理由で送り返してしまった。
妹の円野比売命(マトノヒメ)は同じ姉妹なのに、醜いという理由で2人だけ返されたことが恥ずかし過ぎて、木の枝で首を吊って死のうとした。弟国にたどり着いたときに、ついに深い淵に落ちて死んでしまった。

垂仁天皇は
多遅多摩毛理(タヂマモリ)を常世の国へと派遣して、木の実を探させたがタジマモリが木の実を持ち帰ったときには垂仁天皇は153歳?ですでに亡くなっていた。
多遅多摩毛理(タヂマモリ)は葉つきの枝8本、実つきの枝8本の半分の枝を皇后に献上して、残り半分の枝を垂仁天皇の墓の入り口に供えて、木の実を捧げ持ったまま大声で泣き叫んで「常世の国の香りの良い木の実を持って参上したのに」といいながら息絶えてしまった。
その年天皇は153歳?だった。
垂仁天皇を祀る神社は、一般的には「垂仁天皇陵」として知られる場所を指します。奈良県にある「宝来山古墳」が垂仁天皇陵と推定されている。
四道将軍の派遣:大和朝廷の支配領域を拡大するために、四道将軍を派遣しました。
財政制度の確立:国家の財政基盤を整備しました。
本牟智和気御子と出雲大神の因縁:出雲大神との関係に関する物語が残されています。
肥長比売の伝説:蛇身の美女という伝説が残されています。
多遅摩毛理の常世国訪問:常世国から「ときじくのかくの木実」を持ち帰ったという物語があります。
沙本毘古と沙本毘売の物語:奈良市佐保を舞台にした物語が伝えられています
- ヤマトタケル
- 本牟智和気御子(ホムチワケノミコ):母の狭穂(さほ)姫は兄の反乱に加わって死に,皇子はその燃える城の中で生まれた(狭穂彦・狭穂姫)。 天皇は皇子を二俣小舟(ふたまたおぶね)に乗せ池に浮かべて生育したが,皇子は長じても啞であった。
- 肥長比売(ひながひめ):本牟智和気御子(ホムチワケ)は出雲詣での帰りに一夜を共にした女性が肥長比売であるが、肥長比売の正体が大蛇であったことを知り逃げ帰ったと言われている。その際に大和に向かう船を襲った海蛇の鱗に肥長比売と同じ刺青があったとされ、この海に通じている肥の河の巫女であった肥長比売の母親が海蛇であったという伝承も残されている。肥長比売は海蛇が船を襲った数日後に投身自殺をとげたとされている。
- 多遅摩毛理(たじまもり)(田道間守)は、日本神話に登場する垂仁天皇の忠臣で、「ときじくのかくのこのみ」(橘)を探しに常世国へ渡り、10年後に持ち帰ったものの、天皇の崩御に間に合わず、その実を供え、嘆き悲しんで死んだとされる伝説的人物です。彼は菓子の祖神(菓祖)として崇敬されており、今日ではミカンや橘の神様として全国の菓子店や神社で祀られています。
- 沙本毘売命(さぼひめ)妹・沙本毘古王(さぼひこ)兄:垂仁天皇に対して謀反を企て、妹に天皇の暗殺を命ずるが、発覚して、殺害されたとされる。
- 大湯坐(おおゆえ)とは、皇族や貴族の幼い子供の入浴や養育を担当した女性役職のことで、「湯坐(ゆえ)」とも呼ばれ、年長者が務めました。年少者が担当する「若湯坐(わかゆえ)」と対をなし、神事(盟神探湯)に関わる役割や、天皇の后になる資格を持つ特別な女性を指す場合もある。
- 比古多々須美智宇斯王(ひこたたすみちうしのおう)とは、丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)のことで、『日本書紀』では丹波道主王(たんばのみちぬしのみおう)とも表記され、開化天皇の皇孫、景行天皇の外祖父にあたり、崇神天皇の時代に四道将軍の一人として丹波(山陰地方)を平定するために派遣された
- 四道将軍(しどうしょうぐん)とは、『日本書紀』に登場する、崇神天皇の命により日本の四方(北陸、東海、西道、丹波)へ派遣され、各地の平定と支配領域の拡大を行ったとされる4人の皇族将軍の総称です。具体的には、大彦命(おおひこのみこと)(北陸)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)(東海)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)(西道)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)(丹波)を指し、伝説上の存在です
- 兄比売(えひめ)」とは、三野国(みののくに)の首長の娘で、美しい姉妹(兄比売・弟比売)のうちの姉の方を指し、垂仁天皇の時代に大碓命(おおすのみこと)が連れ戻した(あるいは通じた)人物として描かれ、後に日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)と称されて景行天皇などを産んだ皇后となる存在
- 弟比売(おとひめ・おとたちばなひめ)」とは、日本神話に登場する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃で、東征の途中で自らの命を捧げて荒れ狂う海神の怒りを鎮め、夫の航海を助けたことで知られる
- 山辺大鶙(やまのべのおおたか)とは、豪族で、垂仁天皇の皇子である誉津別命(ほむつわけのみこと、本牟智和気王)に仕え、彼が言葉を話せるようにする物語で有名です。大和(奈良県)の山辺郡(やまべぐん)の出身とされ、『日本書紀』では系譜が異なり、祖先にあたる天湯河板挙(あめのゆかわたな)として描かれることもあります。
- 曙立王(あけたつのおおきみ)は、皇族。 大俣王の子で、菟上王(うなかみのおおきみ)と兄弟。 開化天皇の皇子である彦坐王の孫にあたり、伊勢の品遅部、伊勢の佐那造の始祖とされる。
- 倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとしきとみとよあさくらのあけたつのおおきみ)とは、開化天皇の孫で、垂仁天皇の皇子・本牟智和気命(誉津別命)が出雲へ参拝する際のお供を務め、「うけい(誓約)」で神意を証明した皇族
- 菟上王(うなかみのおう)とは、開化天皇の孫で、彦坐王の子、大俣王の子にあたり、垂仁天皇の皇子で口のきけない本牟智和気王(誉津別命)に付き添い出雲大神を参拝し、帰りに神殿を造ったという伝説を持つ皇族で、比売陀氏の祖ともされます。
- 美知能宇斯王(みちのうしのおう)とは、『古事記』に登場する丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)の別名で、第9代開化天皇の皇孫であり、第12代景行天皇の外祖父にあたる人物です。崇神天皇の時代に、全国平定のための「四道将軍」の一人として丹波(山陰地方)に派遣された皇族。娘は比婆須比売命(ヒバスヒメ)、弟比売命(オトヒメ)、歌凝比売命(ウタゴリヒメ)円野比売命(マトノヒメ)
- 10代崇神天皇(すじん)
- 12代景行天皇(けいこう)
