本文へスキップ

名所めぐりは過去に行ったことのある土地の紹介です。

どこへ行ったのか忘れてしまうので独遊庵の名所めぐり

日本武尊(やまとたける)『古事記』では倭建命

大和政権(大和朝廷ともいう)が列島を統一するために東奔西走して戦った皇子。別名:小碓王(おうす)

日本武尊(やまとたけるのみこと):日本書紀刈田神社八槻都都古別神社馬場都々古別神社中之嶽神社妙義神社気比神宮建部大社大鳥大社
別称
倭建命(やまとたけるのみこと)
古事記
小碓王(おうすのみこ)古事記
小碓尊(おうすのみこと)古事記
日本武尊(やまとたける)
生まれ: 西暦72年, 大和国
死去: 西暦114年, 伊勢国
両親: 景行天皇、 播磨稲日大郎姫
配偶者: 両道入姫皇女
子女: 仲哀天皇、 稲依別王、 稚武彦王、 蘆髪蒲見別王

伝説的な英雄で、景行天皇の皇子です。父の命令で、大和朝廷の支配を広げるために、西日本の熊襲や東日本の蝦夷と戦いました。
日本武尊日本武尊の力を恐れていた景行天皇は、自ら遠ざけるために九州の熊曾建(くまそたける)兄弟の討伐を命じた。

小碓王オウスは、叔母の倭比売命ヤマトヒメのところに行って女性の衣装を分けてもらい、剣を忍ばせ旅立った。
熊曽建クマソタケルの宴会に美少女に変装して忍び込み、酔って油断したクマソタケルの兄を殺し、驚いた弟の後を追って弟も殺した。
やまとたけるこのとき、クマソタケルの弟が殺される前に大和に並びもない武勇の人として「ヤマトタケル」と名乗ることを勧めた。
これ以降「ヤマトタケル」と名乗るようにななった。
それから小碓王オウスは倭建御子ヤマトタケルノミコと呼ばれるようになって大和へ帰る途中で山の神や、河の神や、海峡の神を従えた。
地方の聞き分けのない勢力を平定させた。

倭建御子(ヤマトタケルノミコ)となった小碓王(オウス)は、「出雲の国」へと入り、出雲の勇者「出雲建(イズモタケル)」を殺すため、偽って親友の誓いをむすんだ。
木で偽の刀を作り身につけて、二人で肥川に水浴びに行った。
けど水浴びから上がった時に、出雲建(イズモタケル)の刀と自分の刀とを取り替えないかと言って、刀を交換してから、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)が太刀を合わせて勝負してみようと言った。

いざ勝負となったが偽物の刀を持っている出雲建(イズモタケル)は刀が抜けなかった。
倭建命そこで倭建御子(ヤマトタケルノミコ)は、容赦なく刀を抜き、出雲建(イズモタケル)を切り殺してしまった。
倭建御子(ヤマトタケルノミコ)は出雲を平定して大和に戻って天皇に報告した。

熊曾平定の後、出雲の出雲建(いずもたける)を倒し、大和へ戻った日本武尊だが、その力をますます恐れた景行天皇から、休む間もなく東国の平定を命じられた。
東へ向かう前に、今度は倭姫命(やまとひめ)から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と、火打ち石の入った袋を授かった。
この地に着いた日本武尊は、敵に欺されて草むらの中で四方から火を点けられてしまいます。
窮地に陥った日本武尊は、とっさの機転で倭姫命から授かった天叢雲剣で草をなぎ払い、火打ち石で逆に敵に向かって火を放った。
日本武尊(やまとたける)炎は向きを変え、勢いよく敵に向かって燃え広がり、無事窮地を脱することができた。
この後、天叢雲剣は草薙の剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれるようになり、名古屋の熱田神宮にお祀りされています。

ヤマトタケルは伊服岐の山の神を素手で倒すと言って山に登ったけどふもとで出会った白いイノシシは牛のように大きかった。
ヤマトタケルは、白いイノシシは山の神の 使いだろうから、今殺さなくても帰りに殺せばいいと言って山を登った。
すると山の神が、激しい雹(ヒョウ)を降らせ、ヤマトタケルの正気を失わせた。
この白い猪は神の使いではなく、その山の神そのものだったが、ヤマトタケルの勘違いで「神の使い」と言ってしまったために、怒りを買ってしまった。
ヤマトタケルは帰ろうと山を下りたが、その途中、岐阜県関ケ原町の玉倉部(タマクラベ)の清水(シミズ)にたどり着き、休息すると、落ち着いてきた。

そこから当芸野(タギノ)のあたりに到着したとき、ヤマトタケルは、私の心は空を飛ぶくらいに元気だったのに、今は歩くのも難しく足もタギタギしい[道のアップダウンも激しく足も曲がってはれてあがっている]と言った。
日本武尊それでこの地を当芸(タギ)[現在の岐阜県養老郡養老町とも言われている]と呼ぶようになった。
更に進むとヤマトタケルはひどく疲れてしまい、杖をついてようやく歩けるほどになってしまった。
ヤマトタケルは尾津前(オツノサキ)[三重県桑名郡多度町]の一松(ヒトツマツ)の元に到着したが、前にここで食事をしたときに忘れた刀がそのまま残っていた。
そこを出て三重の村についたときヤマトタケルは足は三重に曲がったまがり餅のようで、とても疲れたと言ったのでそこでその土地を「三重」と呼ぶようになった。

そこから進んで能煩野(ノボノ)[三重県鈴鹿市加佐登町のあたり]に到着して、故郷を想い歌った。
歌い終わって、ヤマトタケルは死んでしまった。

このことを伝えるため、早馬を走らせて、大和に報告しました。
大和にいたヤマトタケルの妻達と子供達は、皆、大和から下ってヤマトタケルが亡くなった場所に来て、お墓をつくり、墓の周囲の田んぼを這い回って、泣きながら歌を歌った。
ヤマトタケルの魂は大きな白い鳥となって、空を飛び、海の方へと飛んで行った。
やまとたける
后と子供達は、竹の切り株に足を切られても、その痛みに気づかないまま鳥の後を追いながら4つの歌を歌った。
この4つの歌は、ヤマトタケルの葬儀に歌われたけど、現在でも、天皇の葬儀の際にはこれらの歌を歌う。
鳥になったヤマトタケルの魂が伊勢から飛び立って、河河内国の志幾(シキ)に留まったのでその地にもヤマトタケルの墓を作った。その墓は「白鳥御陵(シラトリノミハカ)」と名づけられた。
白鳥はそこからまた飛び立って天に向かって飛んで行った。

熊襲征伐:南九州の熊襲を討伐しました.
蝦夷征討:東北地方の蝦夷を平定しました.
白鳥伝説:蝦夷征討から帰る途中で病死し、その魂は白鳥となって飛び立ったという伝説があります。白鳥は琴弾原、古市、そして天へと飛び去ったとされています.
弟橘媛との物語:弟橘媛という妃がおり、彼女は日本武尊を助けるために海に身を投じたという伝説があります.
草薙剣:伊勢神宮で倭姫命から草薙剣を授かり、東征中に火攻めに遭った際に、この剣で草を薙ぎ払い、火を消したと伝えられています.
各地の伝説:焼津、足柄、伊吹山など、各地に日本武尊に関する伝説が残っています.
日本武尊の物語は、『古事記』や『日本書紀』に記されており、大和朝廷の勢力拡大を象徴する英雄として語り継がれています

関連

  • 子は第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
  • 倭比売命(やまとひめのみこと)とは、『古事記』に登場する古代日本の皇族で、第11代垂仁天皇の皇女であり、天照大御神伊勢神宮に祀る(創建する)ことになった人物です。天照大御神の「御杖代(みつえしろ)」として、大和から伊勢へ約40年かけて巡幸し、現在の伊勢神宮(皇大神宮)の地に鎮座地を定めたことで知られ、神話的な初代斎宮(さいぐう)ともされます。日本武尊の叔母にあたり、その東征・西征を助けた
  • 斎宮(さいくう・いつきのみや)とは、主に伊勢神宮に仕えた天皇の未婚の皇女(斎王)が住んだ宮殿と、その周辺の役所(斎宮寮)を指し、平安時代中期まで続いた制度
  • 熊曽建(くまそたける)とは、古代九州南部(現在の熊本・宮崎・鹿児島県あたり)にいたとされる、大和朝廷に抵抗した勇猛な豪族(首長)を指し、特に景行天皇の皇子であるヤマトタケル(日本武尊)に討伐されたことで知られ、ヤマトタケルに「タケル(建)」の名を献上した
  • 出雲建(いずもたける)は、出雲の首長で、ヤマトタケルに“だまし討ち”で殺された人物
  • 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、三種の神器の一つで、草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれ、天皇の持つ武力の象徴とされ、熱田神宮のご神体として祀られています。スサノオノミコトが八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から見つけ、ヤマトタケルが東征の際に火難を逃れたことから「草薙剣」と呼ばれるようになったという伝説を持ち、皇位継承の証として歴代天皇に伝わる
  • 刈田神社・北海道
  • 八槻都都古別神社・福島県
  • 馬場都々古別神社・福島県
  • 中之嶽神社・群馬県
  • 妙義神社・群馬県
  • 金鑚神社・埼玉県
  • 気比神宮・福井県
  • 建部大社 ・滋賀県
  • 大鳥大社・大阪府