江戸初期の古文書には、芝台というところに老翁が忽然と現れ、三日三夜アヤシキヒカリを放った後、行方がわからなくなり、民が託宣を行うと、「吾は是れ猿田彦大神なり」と名のり、この地において民を護るという神託があったことが記されています。現在境内地は昔の半分以下となっている為、小字「芝台」の土地より東方百五十メートルの地(境内の西端)に、大神降臨の地として元宮が建てられています。
平安時代後期崇徳(すとく)天皇の御世に、祭祀に関わる官人であった宮司家の先祖が、都から下向し猿田左近と名のり初代神主(大中臣を姓とする)となりました。そして大治(だいじ)二年(1127)に、芝台の地から現在の社殿の地に、猿田彦大神をお遷しいたしました。
以降、名字は猿田、石毛(いしも)、海上、石毛、猿田と時代により変わりましたが、一軒の社家で祭祀を継承してきました。
鎌倉、平安時代、この下総国は、千葉氏が守護となりその一族が各地を統治しました。千葉県東部を統治した一族の海上氏の本拠地が、当社の東方約四キロにあり、海上氏をはじめとする千葉氏一族の崇敬をうけました。ただこのことから、永禄九年(1566)と天正三年(1575)、安房、上総国を支配していた里見氏が下総に侵攻してきた時、社殿を焼かれるということもありました。
御祭神:
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天鈿女命(あまのうずめのみこと)、菊理媛命(くくりひめのみこと)
創建以来、源頼朝をはじめ、各時代の名だたる武将の戦勝祈願の場となりました。
創建: 垂垂仁天皇25年(西暦紀元前5年)の申の日に、芝台なる地で老翁が現れ「我は猿田彦大神であり、民を守るために降臨した」との神託があったとされます。
社格等: 無格社
ご利益は、みちひらき、開運、事業・人生の開拓、交通安全、方位除け、縁結び、所願成就など
関連とご近所
- 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ) :天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫神で、皇室の祖である邇邇芸命(ににぎのみこと)を天界からこの国土に導いた神です。ただ当社の伝承では、その後、鹿島神宮の御祭神、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)と香取神宮の御祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が東国を平定する際、その道案内を務め、両神が鹿島、香取の地に鎮座されたあと、この地に鎮まられたとされています。
- 天細女命(あまのうずめのみこと) :御本殿の左に相殿の神として鎮座。天照大御神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸の前で様々な所作をして天岩戸より出ていただく導きをした神です。また、邇邇芸命が天界から降臨する際、供をして一緒に国土に降りてこられました。
- 菊理媛命(くくりひめのみこと) :御本殿の右に相殿の神として鎮座。御本殿の右の神は、江戸時代初期は手力雄命(たぢからおのみこと)あるいは大己貴命(おおあなむちのみこと) とされていました。宮司家の先祖、二十五代当主(1800~1840)、二十六代当主(1828~1884)は平田国学の門人で、『日本書紀』には伊耶那岐(いざなぎ)、伊耶那美(いざなみ)の夫婦神が黄泉の地で争い事をした時、菊理媛命がその仲裁をしたという記述があります。このことから、猿田彦大神と天細女命の夫婦神と共に祭るのにふさわしいとして、菊理媛命を相殿の神としたと考えられます。
- 常燈寺
- 平兵衛屋
- 真言宗 智山派 仙瀧山 龍福寺